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 太平洋戦争が終わりを迎える前日、大阪で最後となる大空襲があった。多くの犠牲が出た現在のJR京橋駅(大阪市)で14日、慰霊祭が行われ、体験者や遺族らが参列した。

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空襲犠牲者に対し手を合わせる慰霊祭の参列者たち=2024年8月14日午前11時50分、大阪市のJR京橋駅南口、花房吾早子撮影

 「地獄やで。ほんまに僕は地獄を見たよ」

 駅の近くに住む安本恒次良さん(94)は79年前のこの日、疎開先の京都府から列車で京橋駅に着いた。その時、空襲警報が鳴り、防空壕(ごう)へ。誰かが「静かにしましょう」と言った瞬間だった。爆音が響き、壕の外へ出た。

 両手でそれぞれ子どもを連れた人が顔から血を流して歩いていた。頭を抱えた人が地面に転がっていた。がれきの中から顔だけ出た兵士の体を、安本さんは引っ張り出した。

 思い出すと、涙が出る。「僕は生き延びたから、死んだ人を供養せなあかん」

 大阪市東部で1945年8月14日昼ごろ、米軍のB29爆撃機が爆弾を投下。東洋一とも言われた兵器工場「大阪陸軍造兵廠(しょう)」(大阪砲兵工廠)を狙ったとされるが、造兵廠のそばの京橋駅も爆撃を受けた。停車中の列車や線路が破壊され、高架下に避難した多くの乗客らを含め数百人が犠牲になったという。

 生き延びた森本栄一郎さん(83年死去)が2年後、自費で慰霊碑を建立。森本さんと縁のあった妙見閣寺(大阪市旭区)が事務局となり、55年から慰霊祭が行われている。(花房吾早子)

■戦後もおびえたサイレン 本…

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